トッカビ交流講座 ベトナム難民として生きて

 2009年2月21日、八尾市立安中人権コミュニティセンターでトッカビ講座「ベトナム難民として生きて」が開かれました。
 お話をしていただいたのは、ベトナム難民のグェン・フー・ロックさんとお連れ合いのテルオング・ティ・ロアンさん。お二人の話を編集部がまとめました。
 ロックさんは1958年、南ベトナムの首都だったサイゴン(現在のホーチミン市)で、ロァンさんは同年、少し南のベンティエという町で生まれました。
成人して後は、ロックさんは縫製工場、ロァンさんはレストランで働いておられましたが、ベトナム戦争終結後、様々な環境が日々悪くなり、ついにベトナムを離れる決意をしました。

インドネシアで難民認定

 1990年ロックさんは、夜陰に紛れて、30人ほどの仲間と小舟でベトナムを後にしました。台風の恐怖の中、ようやくインドネシアにたどり着き、難民キャンプに入りました。
 ここで国連難民高等弁務官事務所の難民資格認定審査(スクリーニング)を受け、難民認定を受けました。この審査は大変厳しいもので、当時の認定率はわずか7%だったそうです。
 ロックさんの兄弟はすでにアメリカで暮らしており、お兄さんから渡米を勧められましたが、ロックさんは治安の良いと思った日本行きを希望したとのことです。

九州、北海道そして八尾へ

 ロックさんは1993年5月に来日し、東京にあった国際救援センターに入所、そこで日本語研修を受けましたが、その期間は3ヶ月と短期間だったそうです。
 センター退所後は、長崎や北海道でプレスの仕事をされていました。日本の端から端までですが、仕事があったから長距離の移動も仕方なかったということです。
 1994年5月、縁あって八尾市に来られ、仕事も家も定まり、ようやく日本で落ち着くことができ、家族を呼び寄せる条件が整いました。
ベトナムに残ったロァンさんは、ロックさんからの連絡が来るのを待ち続けました。1997年2月、ついにロァンさんは日本の地に降り立ち、7年ぶりに一家が揃うことになりました。 
その後、現在まで一家そろって八尾で暮らしておられます。

文化の違いがいろいろ

 日本に来る前、一定の知識は持っていたそうですが、日本の文化や習慣はベトナムと違うものが、たくさんあったということです。たとえば、地域の結びつきはベトナムの方が強く、お祭りでも習わしがきびしかったということです。それに比べて日本はそんなにうるさくなく、自由に感じられたそうです。
 また、食べものも、家ではベトナム料理が多いですが、ほとんどの和食は大丈夫です。
 日本語を体系的に学ぶ機会が無かったため、難しい言葉は分からないことがあるということです。とくに役所や学校からの通知などは難しいといわれます。子どもは来日時、長男が18歳、次男は11歳でした。
 分からない日本語があると子どもにベトナム語で尋ね、子どもがその日本語をベトナム語に訳してくれます。

日本社会の一員として

 日本で暮らしてきて、外国人だということで冷たい目で見られたこともあったということです。また、今ではベトナムへも問題なく行き来できるようになりましたが、これからも日本で暮らしていきたいといわれます。
 日本社会の一員として、まじめに働いて
暮らしていきたい、というのがロックさん、ロァンさんの変わらぬ気持ちです。